予兆
その予兆はずいぶん前からありました。
1997年の日産生命の経営以降、生保6社が財務悪化で破綻しました。
その中にあって千代田生命は1996年まで大手8社の一角を占めていましたが、2000年3月期決算において総資産で業界12位の中堅生保に位置していました。
1980年代に積極経営に転換しバブル時代に過剰な不動産投資に走り、その崩壊とともに数千億円に及ぶ不良債権を抱えました。
最後の頼みの綱は、親密銀行と言われた東海銀行に支援要請していたものの、不調に終わったことが私の中では決定打であったと思います。
入社式翌日の研修中に東海銀行中目黒支店の行員が数名来て、全員有無を言わせず普通口座とキャッシュカードを作成した記憶があります。
営業所長としても新入行員の契約はもちろん、融資先企業に行員とともに役員保険の提案に出向き、大口契約をご紹介頂きました。
このように東海銀行だけ特別な関係と認識していましたので、何があっても見放すことはないと信じていました。
山一証券経営破綻で、金融機関も潰れるという印象が人々に植え付けられていました。インターネットはまだ普及していませんが、週刊誌や世間の風潮も「次はどこか?」「自分が契約しているところは大丈夫なのか?」「潰れたらこれまで掛けてきたお金はどうなるのか?」という話題で持ちきりでした。
営業現場では、既契約先に他社セールスマンが週刊誌記事コピーをチラチラ見せながら「千代田は危ないから今のうちにこちらへ」という勧誘が頻発し解約件数も異常に増えていました。
営業所内でも、まだ根付いていない3人の2年以内の女性セールスマンが他社に引き抜かれたことがありました。
お客様からの問い合わせや新規契約締結のためにセールスマンに同行した時には「お宅の会社大丈夫?」といつも聞かれました。
そのたびに「東海銀行からの支援があるから大丈夫です。」と答え、会社の健全性をお話し納得してもらいました。
破綻当日から始まった混乱
忘れもしない2000年10月10日 体育の日で祝日、朝6時ゆっくり眠っていた私はけたたましく鳴る携帯(ガラケー)の着信音にたたき起こされました。
営業所の男性職員からでした。「所長、新聞見てください。一面に会社が経営破綻と載っています。」私は電話を切り、新聞を開きました。「千代田生命経営破綻」という大きな太字の見出しが躍っていました。
山一証券が経営破綻した時に窓口にお客さんが殺到し、大混乱になったことをニュースで知っていました。同じことがきっと起こると確信し、すぐに6人のチームリーダーにTELし9時に営業所に集合するよう伝えました。
私自身は7時過ぎに営業所に到着し、直属の上司に連絡しましたが「こちらにも何も会社からの指示は入っていない。対応指示が出たら真っ先に連絡する。」との返答でした。
8時過ぎから次々とチームリーダーやベテラン社員たちが集まり始め、それに混じって早く情報がほしいと一般セールスマンも休日出勤してきました。
8時50分から出社しているメンバー全員でミーテイングを始めました。
「お客様がかけている保険契約はどうなるのか?明日からどう説明すればよいのか?会社は今後どうなるのか?自分たちの雇用はどうなるのか?」という心配の声ばかり挙がりました。
ミーテイング直前にも再度上司にTELするも、「会社からの指示はまだ何もない。FAXもない。」との返事のみです。セールスマンの不安に答えたくても何1つ材料がありません。答えの出ないミーテイングをしているさなかに、外線電話がけたたましく鳴りました。
契約の心配をしているお客様からでした。休日なのに外線電話が鳴ったことを不思議に思いましたが、ひとりのセールスマンが夜間・休日もつながる外線番号を一部のお得意さまに伝えていたようです。
結局「新聞報道で出ましたが、お客様の保険契約には影響ありません。」とお伝えするしかないとの結論となりました。
そのミーテイングでは「明日以降私は7時出勤、営業所も通常通り9時に開けます。TELまたは訪問してお客様対応してください。」としか伝えられませんでした。その後セールスマンは、お客様にTELしまくる者、休日訪問して対応する者様々でした。
翌日からの1週間は地獄の日々でした。
9時前から新聞やニュースを見て心配になったお客様が殺到し、2人の事務員と私だけでは対応しきれず、会議室の机を並び替えて、面談スペースを6個作りましたが、すべて埋まり、来店のお客様が途切れることはありませんでした。
昼過ぎになっても会社からの情報はなにもないため、お客様には、「我々も新聞で初めて知ったばかりで、契約についてはまだ何もお答えできません。」と返答することしかできず、我々に罵声を浴びせて帰る人や、肩を落として帰る人、様々でした。
ただ中には声を荒げて肩や胸を突いてきたり、泣いたりするお客様もいて、営業所内は騒然となりました。
多くのお客様は、自分の契約している内容説明を求める方や、今まで払って保険料合計や今解約した時に帰ってくる金額を聞いて、ぶつぶつ文句を言う方がほとんどでした。
結局この日は夜8時くらいまで、説明を求める来客が絶えませんでした。
セールスマンも事務員も昼も食べずにお客様対応に追われ、疲れ切っていましたので、私はコンビニでおにぎりやサンドイッチと飲み物を大量に買い込んで配り、労をねぎらいました。
私は顧客対応や本部からの情報収集に追われ、帰宅したのは11時過ぎでした。
他の営業所では、来店したお客様に殴られた営業所長や、訪問した先で返してもらえず、4時間監禁される事件も発生し、翌日から各営業所1人警備員が常駐するようになりました。
転職を決意
新聞発表から3週間くらいで、営業所へ押しかけるお客様ようやく落ち着きを取り戻しましたが、私の腹の中は煮えくり返っていました。
破綻を招いた経営陣への怒りはもちろんありましたが、お客様対応のQ&Aなども本社から全く情報提供なく現場任せで、我々営業所長やセールスマンは毎日朝から夜遅くまで、休みなくお詫び行脚が続きました。
その一方で、「この地区の一番偉い本部長が10日間雲隠れして顧客対応から逃げていた。しかも自宅にも帰らず高級ホテルに滞在していた。」ことが発覚したからです。
各営業所があれだけの騒ぎになっており、当然地区本部のビルには「責任者出せ」と訴える多くのお客様が押しかけたことは聞いていました。
これまで厳しくノルマを掛け、会議で叱責していた本人がお客様と対峙せず逃げ回っていたことにあきれて言葉を失いました。
破綻から後の夜に全営業所長に招集がかかりました。千代田生命の事務所が入っているとは誰も気づかない会議室にようやく地区本部長も姿を見せて詫びていましたが、皆あきれるばかりでした。
その時点では、2001年4月に自主再建との説明が初めて明かされました。
しかし新聞・週刊誌の論調は、「自主再建は無理、外資傘下に入り大規模なリストラが待っている」というものばかりでした。
実際本社経理部や営業企画部等中枢にいた同期の話も厳しいものばかりでした。
私はこの頃から「もう会社も上司も信用できない。外資に行ってもリストラがある。」と考えて転職活動を始めました。
運良く年明けにある損保会社から内定を頂き、千代田生命を2001年2月末で退職し3月から転職先で働き始めました。ただ、その会社も3年で退職しその後も転職を繰り返す人生になってしまいました。
まとめ
大学在学中の就職活動の際、私は大手の生保・損保を数社受けましたがどこも受からず就職課に相談に行った時に担当者から「ここならまだ応募を受け付けてくれるかもしれませんよ。」と言われて応募したのが千代田生命でした。
最終的に内定をもらえたのが、山一証券、商品先物会社と千代田生命でした。「生命保険会社は半分公的な会社しかも相互会社だから潰れない」と思って入社を決め、60才までの安定した会社生活を描いていたものの、見事に打ち砕かれました。
ちょうど厄年にこの破綻を経験し、その後転職を繰り返し「人生いろいろ」という言葉の重みを大学卒業後の30年を通してしみじみ実感しています。
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